藤子不二雄のペンネームの由来と、10を超える別名の変遷を紹介。偏りがすごいF先生とバランスのいいA先生

藤子不二雄と言えば、藤本弘(ふじもとひろし)と安孫子素雄(あびこもとお)のコンビ名。その後コンビ解消し藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aとなるわけですが、ペンネームの由来元ネタについて紹介します。やたら偏るF先生と、バランスいいA先生がおもしろいです。また小変更や特殊事例を含むとペンネームの種類は10を超えるのでそれらも全て紹介します。

ペンネームの元ネタと変遷

最初に結論として、藤子不二雄の代表ペンネームの変遷とその元ネタについて図示します。

足塚不二雄:「手塚」と「藤本」と「素雄」を合わせた名前

プロデビュー最初期の頃は「足塚不二雄」でした。尊敬する手塚治虫から名字を拝借し、手塚そのままでは露骨という事で「手塚先生の足元にも及ばない」の意味で「足塚」としました。
また名前部分はそれぞれの本名からとっています。藤本の「藤」と素雄の「雄」を取りました。
「不二」という表記に変えられているのは「2人であって2人にあらず」と、コンビで1つの存在であるという意味を込められたものと言われています。

藤子不二雄:名字も本人から取る。「藤本」と「安孫子」から。

デビューしてまもなく、足塚の部分を変更して「藤子不二雄」となります。藤本の「藤」と、安孫子の「子」を合わせたものです。足塚では手塚治虫そのまますぎるという理由で変更されたとされています。2人で1つのペンネームで初期こそ合作も多く見られますが、中期以降はそれぞれが独立した漫画を描きながらペンネームだけは共有するという変わった体制で活動をしていました。

藤子・F・不二雄と藤子不二雄A:二人を区別するために「藤本」と「安孫子」から

1987年コンビ解消を発表しました。以降は「藤子・F・不二雄」と「藤子不二雄A(実際は○の中にA)」として独立して活動します。この際に元のペンネームである藤子不二雄にそれぞれ「藤本」の頭文字「F」、安孫子の頭文字「A」をつけて単独名義となります。
コンビ解消は円満なものであったとされます。どちらも藤子不二雄の名前を残しているのですから、相手の名前が含まれ残った状態で活動を続けるのが何よりの証拠でしょう。解消後もスタジオは隣同士でした。

やたらと偏るF先生と、バランス良いA先生

上記の通り、下の名前→名字→固有ミドルネーム(?)と段階的に自分の本名から付与していくわけですが、F先生は全て「藤」から取っているんですよね。めちゃくちゃ偏っています。一方でA先生の方は「安」「子」「雄」とまんべんなく使ってます。
F先生がなぜ「藤」ばかり使っていたのかについては特に理由を述べられた事はありません。これは推測ですが、「不二雄」の時は、「不二」にコンビの意味を込めたくて使った。そして「藤子」の時は名字を合体させるわけですが、逆パターン「安孫本(あびもと)」を考えると「安孫」だけで「あび」とは通常読まない、または子供に読みにくいという理由で「藤子」の方を選んだ。という消去法的な理由で決まったのかなと推測しています。

 




他にもいろいろある。全ペンネーム紹介。

上記では、長く使っていたペンネームだけを挙げました。元ネタを説明するには上の3つで十分なのですが、実際にはデビュー前の名前や一回限りの名前、あえて別名義したになど様々なパターンがあります。それらを全て紹介します。

(1950)~1951:藤本弘、安孫子素雄(単独名義) デビュー前の雑誌投稿名

まだプロデビュー前の時代、2人はコマ漫画を雑誌に投稿していました。その際には本名そのままで投稿していた時期がありました。それが「藤本弘」「安孫子素雄」です。投稿時はそれぞれが単独で書いていたのでコンビではありませんでした。
また同人誌「少太陽(1950)」なども作成しており、この辺には合作要素がありますがそこに描かれた名前は藤本弘、安孫子素雄とそのままで書かれています。

1951~1952:あびこもとお、ふじもとひろし(連名) プロデビュー作の名前

1951年12月16日~1952年4月4日 毎日小学生新聞大阪版で「天使の玉ちゃん」という四コマ漫画が掲載。これが2人のプロデビュー作となります。その際の名義がこの「あびこもとお、ふじもとひろし」で、合作ですがコンビ名という感じのものはなく、本名をひらがなで並べただけの形になっています。

1951~1952:手塚不二雄

コンビとしての活動が進み、初めてペンネームらしい名称として作られたのが「手塚不二雄」です。尊敬する手塚治虫から名字をそのまま拝借し、「不二雄」の部分は藤本の「藤」と素雄の「雄」をくっつけたものです。藤が不二になっているのは、「2人であって2人にあらず」という意味をこめられたものとされています。このペンネームはプロデビュー時には使われておらず、雑誌投稿時に使われた名前としてだけ存在するペンネームです。

1952年4月:一回だけの牛塚不二雄(おそらく誤植)

1952年4月号「アサヒグラフ」に掲載された投稿漫画「遺作」の作者名は「牛塚不二雄」となっておりこの1作だけこの名前です。これは手塚で送ったが「手」と「牛」を誤植したと思われます。
「あし(足)」と「うし(牛)」を誤植した可能性も…?と思ったのですが、雑誌投稿は文字で伝えますが、書き文字の「手」を「牛」と読み間違える事はあっても「足(あし)」を「うし」を間違えるような音的な間違えは起きないだろうし、また雑誌投稿には足塚不二雄の名前を使ったことがないので、まあ手塚の誤植なのでしょう。

1952~1954:足塚不二雄 漫画雑誌デビューから

1952年「少年証書冒險王」で読切作品「西部のどこかで」を執筆します。前述の「天使の玉ちゃん」は新聞四コマでしたが、これは漫画雑誌への本格デビューになります。ここからペンネームが「足塚不二雄」になります。これは手塚ではあまりにもそのままであるという事で、「手塚治虫の足元にも及ばない」という意味を込めて足塚にしたとされています。

1954~1987:藤子不二雄

1954年「宇宙鉱脈」よりペンネームを「藤子不二雄」に変更します。足塚であってもまだ手塚治虫から拝借した事が露骨であるという事でここも2人の名前「藤本」「安孫子」から藤子にしました。
ハッキリとした出典元はないのですが「手塚先生の名前をあやかったままでは手塚先生を超えられない」という気持ちがあったとされます。これは自伝的漫画「まんが道」の中でもF先生をモデルにした才野が「おれたちが足塚というペンネームを使っている限り手塚先生をこえることはできない!」と発言しています。まんが道は虚実入り交じる伝記なのでこれを史実とできるわかではありませんが、このような事があった可能性は高いです。

1957:やまもとよしお 2作同時掲載のための別名義

1957年9月号の「幼年クラブ」ではF先生が書いた漫画「ゆうれいやしき」が「やまもとよしお」名義で掲載されます。理由は「幼年クラブ」にはもう一つF先生による「しゃっくり丸」が連載中で、2作掲載のために別の名義を使ったとされています。(でも同じ雑誌に藤子作品が2作掲載される事は珍しくないのでなぜここだけ別名使ったのかは謎です)
名前の由来については全く不明です。別人だと思わせる事が目的ならば本名からもじる事はなさそうです。それでも「お」は藤子不二雄と同じですし、もしかしたら「もと」の部分は藤本弘の「本」から取っている可能性もあるのかも…!?  

1988:藤子不二雄F 最初はA先生と同じ位置

1987年コンビ解消後、単独名義となり藤本先生は「藤子不二雄F(実際は○の中にF)」を名乗ります。Fは藤本の頭文字です。コンビ解産直後はこのようにFが後ろについており、A先生と統一されたものでした。このペンネームは1年足らずで変更されるため、この名義で出た単行本などは一部でプレミアがついています。

1988:藤子不二雄A

1987年コンビ解消後、単独名義となり安孫子先生は「藤子不二雄A(実際は○の中にA)」を名乗ります。Aは安孫子の頭文字です。それからはずっとこの名前を通し続けました。

1989:藤子・F・不二雄

コンビ解消から約1年経過したあたりで「藤子・F・不二雄」になります。この理由はトキワ荘時代からの盟友、石ノ森章太郎に「あのね、藤子不二雄Fじゃちょっと語呂が悪いよ。Fを真ん中に持ってきたらどうだ? ミドルネームみたいでかっこいいじゃないか」と勧められたいう逸話が残っています。これで今も続くペンネームに収まりました。

 




終わりに

以上が藤子不二雄のペンネームの由来、各種変遷とその理由です。一般にはF先生は計画的に決めるタイプ、A先生はその場の勢いで進めるタイプとされていますが、ペンネームに関してはむしろF先生の方がいろいろとフラフラしたりなし崩し的に偏ったりしていて面白いです。

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